2014年2月12日水曜日

ソチ冬季オリンピック

やりました、日本初のメダルです!

今朝のニュースではそう叫ばれていました。
比較的新しい競技であるハーフパイプで、15歳という新しい力が銀メダル。
凄いことだと素直に思う反面、オリンピックがなければ私は彼らのことを知らなかったよな、と少し複雑な思いです。

特に最近の冬季五輪は毎回驚きがいっぱいです。
モーグル、エアリアルから始まり、今回のハーフパイプ、スロープスタイルなど、これまで見たことのない競技が矢継ぎ早に目の前に現れました。

特にスロープスタイルには度肝を抜かれました。

モーグル、エアリアルを見たときに「この競技は普通じゃない」と思いましたが、それ以上。
だってフィールドに階段がある、パイプがある、そんなスポーツって他にどれくらいありますか?

例えばサッカーやラグビー、街中を走るマラソンもそうですが、フィールドにそういうものは置いていない。
あるとすれば体育祭でやっていた障害物競走くらいかな?

網をくぐり、平均台に乗り、パンを咥えてゴールする。
そこで辛うじて登場するかどうかっていうところだと思います。

だから正直「こんなスポーツが成立するのか」と、見る前の私の視線は疑問だらけだったと思います。
しかし目の前で起きる奇想天外な、自由な発想の出来事に目を奪われました。

解説の話を聞くと元々「Xゲームhttp://xgames.espn.go.com/」の中の1つの競技のようですね。
なのでこれほど過激で心が震えるのかと納得しました。

ただそれ以上に終わった後の楽しそうな雰囲気にも良いなと思いました。
恐らくですがXゲームという特定のフィールドがある彼らにとって、オリンピックも1つの会場に過ぎないんでしょう。
国の威信も意識にはあるだろうけど、大切なのは自分のプレイを世界に伝えること。

そのスタンスは大きく変わっていないんだと思います。
もしかすると”新しいオリンピック”というのは、もう始まっているのかもしれません。

これを見た後、他の古くからある競技を見ました。
クロスカントリーにジャンプ、ショートトラックやスピードスケートなど。

もちろん白熱して面白いのだけど、日本勢は勝てない。
メダルを取ったハーフパイプや決勝まで残ったスロープスタイルと何が違うんだろ?と考えました。

多分なんですが、全力を出すためのベースが違うんでしょうね。

国の威信をかけたオールドスポーツと、自分のプライドをかけたモダンスポーツ。
前者と違って後者はよりチームで戦っているのだろうなという気がしました。

もちろんXゲームという別の舞台があるかないかというのは大きいのかもしれません。
ただアスリートがテレビで「スポンサーが居ない」「食えない」と言っている前者より、よほどビジネスになっているんでしょう。
それだから若い力が伸び、若い発想が生まれ、経験者はそれに対峙して時代に傷跡を残そうとする。

ある意味では単純で明快な、本当の真剣勝負がそこにあるのかもしれません。

世界的に見て日本人はお金持ちだと思います。
でもそれは他の人達より財布の中に金貨が1枚だけ多く入っているだけなのかもしれません。
だからそれを彼らと共有することが出来ないんでしょう。

日本人は技術が好きな割りに対価を払おうとしない。
これは本当に悪い癖です。

もしこの先、本当に”国の威信”というものを必要とするなら何か考える必要があるような気がします。
そんなことを考えつつ、現在冬季五輪を楽しんでいます。



2014年2月10日月曜日

原発

都知事選が終わったので、原子力発電所の是非について冷静に考えてみる。

原発は言わば”魔法の技術”というべきだろうか。
一度設備を稼動させれば多くのエネルギーが絶えず生まれ続ける仕組みだ。
しかも暴走さえしなければ環境に対する負荷も大きくない。

だから受け入れられた時代は今と違って環境問題が切迫していたと記憶にある。
今のように進んだ燃焼技術も浄化技術もなく、火力発電所から立ち込める煙に苦しんでいた。
私自身は小さくて記憶に無いが、喘息という症状が体には刻まれている。

多分、某国のPM2.5なんかの問題はこれと同じなんだろう。
それを止めるには一見だけでもクリーンな技術に頼る他ない。

原子力が出てきて何が変わったか?というと、一番は多くの人を支えられるようになったことが挙げられる。
”ランプの精”に苦しめられた人々には心地良い空気を与え、強い光は暗い夜道も照らすことができた。

その結果、高出力で安定したエネルギーは東京のような超文明都市を作り上げていくことになる。

また”魔法”は昼夜問わず安定した出力を発しているのも特徴的だ。
工場は24時間稼動できるようになり、コンビニやファミレス、ファーストフードのように夜間のサービスも現れた。
そして物質化したエネルギーは昼夜を問わず流通網を賑やかしている。

もしかすると人に直接関わる部分としてはこの働き方の問題が一番大きいのかもしれない。

さらに電力は余ったエネルギーを電力会社は夜間電力として販売しはじめた。
オール電化などがその最たるもので、文明はより電気エネルギーに依存する方向になっていく結果となる。
またインターネットも普及し、昼でも夜でも地球の裏側の情報までもが簡単に手に取ることが出来るようになった。

このように産業や文明とこの”魔法”は簡単に切り捨てることができない。


しかしそれによる問題も生じていることも確かだ。

例えば時間の区切りが明確でなくなってしまったことから雇用形態に大きな影を落としている。
言い方を変えれば、いつまでも働かされる状態を作り出してしまったということだ。
そのため人は”魔法”により交換が出来る歯車に近づいた。

そして東京のような一極集中型の都市を育ててしまったことは大きな問題だと思う。

現在、東京には約1300万人の人が住んでいると言われている。
オランダが1600万人と近いから比較対象にするが、大凡19分の1の面積でその人口を賄っていることになる。
しかも近隣には千葉(600万人)、埼玉(700万人)、神奈川(900万人)など、準ずる都市がある。

簡単に計算してこの狭い地域に約3500万人、オランダの倍以上の人間が生活しているわけだ。

ということは電気以外にもそれだけの規模を保つための食料、水などが必要となってくる。
もちろん排出する物質も多く、それらを提供、移動し続けるエネルギーもなくてはならないものとなる。
都市化により確かに生活は高効率化したが、恐らく人が与える環境負荷は試算すらし辛い規模になっているはずだ。


ではこれらの前提がある上で原発の是非を考えてみる。

歴史的な流れや技術的な必要性という入り口に関しては間違いなく是と言えると思う。
もし”魔法”現れなければ”ランプの精”により人の住める場所ではなくなってしまっていただろう。

雇用を含めた生活の快適性という点でも入り口は是と言えるかもしれない。
ただその後、それをどう運用していくか?という文化寄りの視点で眺めてみると非という観点も現れる。
刃物というのは使い方を考えなければ自分を傷つける結果になってしまうということかもしれない。

そして最後に環境負荷という部分ではどうだろうか。

文明の発達に寄与した分だけ極端な都市化を進めてしまい、技術の発展以上の負荷を生んでいる。
残念ながらこれは単に福島の原発から発する放射性物質だけの問題ではない。

しかしそう考えると結局は技術を人がどう使うか?という一点の問題のような気がしてくる。
安定したエネルギーを極端にではなく、安全な規模で、安定的に使っていくことが出来れば良かったのだろう。
だがそれには人間や文明の持つ潜在的な意思、本能という部分をコントロールしなくてはならなかった。

言い換えればどこかに理性という質の良いブレーキが欠けていたことが問題とも言えるかもしれない。

今回、超文明都市の脳を決める選挙の争点が原発の問題になったのも1つの流れと見ることもできる。

ただ単純に悪とすることは簡単だが、今ある”魔法”をどう終わらせるかという問題がある。
また魔法の代わりをどうするのか、再び”ランプの精”に頼るのか、別のエネルギーを探すのか。
それとも文明と決別して別の道を選び生きていくのか、考えることは多い。

それらについてもっと長く時間を使い、多くの極端でない論議をしていかなくてはならない。
技術の価値自体に是も非もない、結局はそれを使う「人の意思」なのだ。

2013年7月23日火曜日

歴史の穴

先日のARTOROで炎天下を歩きつつ「何故日本は馬車がないのだろう」と疑問に思っていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A

というのも日本は東海道を初めとして五街道がしっかりと整備されている。
それで居て伊勢参りや東海道五十三次などの話から見ると移動がそこそこある”らしい”。

だったらあってもおかしくないのに...何故?

文化的に乗り物が無いのかと考えたけど、人が担ぐ籠があった。
馬が無いかと言うと急ぎのときは早馬を使ったようだし、馬の産地も別に少なくはない。

車輪の導入が遅れていたのか?と考えもしたけれど、大八車などがあった。
ちなみに江戸時代でよく見られた大八車の原形は平安時代には登場しているようだ。
となると技術的にも文化的にもなんら問題がないはず。

そして何より平安貴族は「牛車」に乗っていたから思いつかなかったわけがない。
なのに何故歩くことを選んだのだろう、非常に不思議だ。

これと同じように疑問なのが棍棒という武器。
ゲームをやると良くわかるのだけど、物語序盤を支えてくれる大切で原始的な存在だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%8D%E6%A3%92

日本は森林資源の豊富な国家であることは間違いない。
木造文化もあるし、材料には事欠かない筈...なんだけど、あまりコレと言った印象がないのだ。
一番近いのは棒術で使うものだけど、武器のジャンルとして考えるとClub(棍棒)というよりStaff(杖)に近いと思う。

歴史的にも地域的にも「あっておかしくない道具」がない。
素材的にも文化的にも「手に入りやすい武器」がない。
本来なら「あるはず」のものがない。

この違いは何故起きるのだろう。
歴史の穴というのがどこかにあるのかもしれないけど、不思議で仕方がない。

そう言えば確か第三回の中で「登呂遺跡では武器が見つかっていない」という話があった。

発掘されているのは農具のみ。
争いが少なかったんじゃないか?という話になったけど、よくよく考えてみると農具は武器になる。
硬い素材を使っているし、日常的に触れるものだから扱いに慣れやすい。

だとすれば農業の規模=兵力と素直に考えても良いのかもしれない。

トランプのClubは農民を表すくらいだしね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB)

しかし馬車は..どうも日常で代わりとなる存在が見当たらない。
一度は船とも考えたのだけど、山間部も多く流れが急な日本では成立し辛い。
海を行くとしても「多くの中の1つの手段」として捕らえたほうが妥当じゃないだろうか。

もし馬車があれば日本の街並み、発展は大きく変わっただろうに。
同時に車や移動、作業に対する考え方も今とは違ったものになっただろうなぁ...

2013年7月14日日曜日

鉄道事故

フランスで鉄道事故が起きたらしい。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00249852.html

炎天下の飴のように捻じ曲がる車両を見て、その衝撃の大きさを感じる。
私も機械を触る人間の端くれだから、今回の事故を反面教師にしないといけない。

ふと福知山線を思い出した人も多いんじゃないだろうか。

日本で起きた痛ましい事故。
思えばあの日、祖母が広島から大阪へと引っ越す日だった。
家族の中で「もしかして...」という恐怖が走ったのをよく覚えている。

結局事故からは回避できていて一安心。
もう亡くなってしまったが、最期の寝顔が綺麗だったことは喜んでいいのかもしれない。

確か日本もフランスも高速鉄道の輸出をしている。
だからあの時も、今回についても広がる衝撃と言うのは大きく強いものだと思う。

新幹線でもTGVでもない。

ただそれらを支えている技術であることは間違いない。

それを考えていたら精密機械ほど壊れやすいということを思い出した。
調整もこまかく行っているし、校正も掛かっているから非常に正確な数値が出せる機械。
しかし一度狂うと「取り返し」がつかなくなってしまう。

もしかすると鉄道輸出国のフランスと日本とを繋ぐものはこれなのかもしれない。

設備はもちろん、人も消耗するものだ。
より精密な管理は必要だけれど、もし飽和しているのであればいつ事故が起きてもおかしくない。
努力が逆に管理できない、予期できないものを見過ごしてしまう可能性も増える。

顕微鏡で大きな物を眺めているような感じだろうか。
それでは全体像に見えるどこかの狂いが察知できない。

一度設備に対して多くのものが「適正かどうか」を確かめなくてはいけない。

それにはアクセルを緩め、ブレーキをかける勇気も必要になる。
ただそれが出来るのが経営責任者だけなら、それを決断するのも彼らの仕事だ。
水のように湧き出た金を飲み続けるのは詐欺師に任せておけばいい。

私は私でこの事故を受け止めて、色々と教訓にしたいと思う。
そして願わくば「エンジニア」という存在について、もうちゃんとした少し目が向けられたら...と。

2013年7月12日金曜日

ARTORO参加記録 第三回目検地

今月のARTOROは「田んぼの面積を測ってみよう」ということでまずは田んぼへ向かいました。
http://toro-museumshop.jp/artoro

...しかし暑い、暑い、暑い、暑い。

今年の夏は本気で我々を殺そうとしてますね。
それほどまでに日差しは強く、照り返しはきつく、風も吹かずに体力だけを削ってくれました。

で、田んぼで検地。

今回出されていた宿題は「1歩を60cmにすること」でした。
でも色々あって考えて煮詰める余裕が無かったので勘に頼りました。

大体廊下の幅が83cmだからドアがこれくらいで...肩幅と比べると...

とか言いつつ、側溝の蓋を参考にしたのはナイショです。
http://www.maruei-con.co.jp/catalogue/015/007_jis.htm

検地が終わったら登呂遺跡に帰還。

途中の公園で子供が汗だくな私たちが列を成して歩いてるのを面白そうに見ていました。
多分彼女たちから見ると蟻と変わらなかったのかもしれないですね。

帰還してからはこの前植えた水田も検地。

田んぼの中にはデカい貝、おたまじゃくし、ザリガニなど色んな生物が居ました。
どれも外来種らしいんだけど、まぁ普通の都市圏で1万年前の環境が残ってるなんてことはないですからね。
これもある意味では自然の1つの形なんじゃないかと思います。

ザリガニで少し盛り上がってからは発表会。
...なんですが、何よりエアコンの素晴らしさに脱帽しましたね。

VIVA、文明の積み上げ、文明の利器。

発表会は初となる討論式?みたいな感じで気になるところを幾つか聞けたので良かったです。

しかしやっぱり移動、輸送などをどうやってたかが気になりますわね。
だってさ、仮にちょっとずつ採ったにしても結構な量になると思うんだよね。
その日の分だけならわかるけど、それだと他の疑問も出てくる。

昔の登呂遺跡はもっと川辺だったから船が一番確率高いはずなんだけどなー。
なんも論拠も証拠もないのが痛いところだ。

そう言えば炎天下を歩いていてふと疑問に思ったんですよ。
日本は街道がある程度整備されてるのに何故馬車が定着しなかったんだろって。

ある程度文明の発達していた江戸時代なんかも基本的には徒歩。

車輪が無かったのかと言うとそうではないみたいだし、平安時代には牛車もあった。
なのに何故そういう考えが出てこなかったのか、もしくは定着しなかったのか。
それとも別の何か、代わりとなる存在があったのか...?

ただその存在があれば、色んなものが今とは大きく変わってたのかもしれないですね。

町の作り方とか、人の動きとか、農業についてとか。
ちょっと新たに思考を巡らせて見ようかな、と思った第三回でした。

ビィールで乾杯

毎日JPにこんな記事が載っていた。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130628k0000m070099000c.html

公開期間が越えてると見れないので解説するとこんな感じ。

---------------------------------------------
昔、福沢諭吉が「西洋衣食住」という本で酒について語っていた。
その中でビィールについて少し詳しい文があり、そこではビィールの苦味について語られている。
多分諭吉さんは日本の夏とビィールの相性の良さに衝撃を受けただろう。

近年若者がビィールを「苦い」と言って飲まないが、指導したい。

若いと苦いは似てるだろ。
年取ってこの美味さを理解できるようにならなきゃいけない。

じゃぁいつ飲むか?今でしょ。

きっと迷惑がられるだろうな。
若いときはこの苦味と向き合うのが大人の儀式だったのにな。
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...怒られないようにかなり端折ってます。

言いたいことは良くわかりますね。
私もビールが飲めるようになったら大人!という意識がありました。

子供のころもよく正月に「おうお前も飲むか?」なんて言われました。
試しに泡だけ舐めてみるんだけど撃沈し、苦い子供の顔を見て大人が笑う。
こんな風景はどこにでも転がってたような覚えがあります。

私は悔しかったので特訓しました。
とは言っても酒なんて飲める年齢じゃないですからね。
なんとか身近なもので代用しました。

当時は丁度、缶コーヒーにブラック無糖や微糖などが出始めの時代。
まさに渡りに船でしたね。

もちろん最初は苦痛の連続。
でも「吐き出すのはカッコ悪い」と思って日々飲み続けました。

これと時期を同じくして秋刀魚のワタなどにも挑戦していきました。
最初は大根おろしまみれにして苦味を消し、徐々にワタの比率を上げて行きます。
缶コーヒーと同様「吐き出すのはカッコ悪い」と思い、日々挑戦し続けました。

結果的に現在、ビールもコーヒーも秋刀魚のワタも美味しくいただけるようになりました。
でも「飲めよ食えよ」とはあまり強制したくないですね。

苦手な人は苦手でも構わないと思います。

実際私も全てのビールを受け入れてるわけじゃないですからね。
どうもスーパードライ系の妙な辛口は未だに苦手...
http://www.asahibeer.co.jp/superdry/

逆に好きなのは下のような感じです。

ハイネケン(オランダ)
http://www.heineken.com/jp/home.aspx

ザ・マスター(日本 アサヒ)
http://www.asahibeer.co.jp/the_master/

よなよなエール(日本)
http://www.yonasato.com/

エビス(日本 サッポロ)
http://www.sapporobeer.jp/yebisu/

クラッシック(日本 サッポロ北海道限定商品)
http://www.sapporobeer.jp/classic/index.html

プレミアムモルツ(日本 サントリー)
http://www.suntory.co.jp/beer/premium/index.html?fromid=beer_top_pc

もう少し外国のビールに詳しかったら格好つくんですけどね。
基本的にスーパーに置いてあるものしかわからないのがちょっと残念。

毎日飲むには少し価格のハードルが高いかな...

だから「とりあえずビール」じゃなくて「今日はビール」で飲みます。
基本的に好きなものを美味しく楽しめる分だけ飲む、というのが一番だと思います。
料理も同じで、特別苦手なものを無理して食べる必要は無いんじゃないかな。

興味を持つのは正しいことかもしれないけど、それを押し付けるのは道理が通らない。

選挙

http://agora-web.jp/archives/1547039.html
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選挙は昔から見てるのが好きだけど、いつも疑問に思うことがある。

走りまくる街宣車からは「●●でございます」と名前が聞こえてくる。
でもその人がどんな人で、何をやって、何をやろうとしてるのかがわからない。
今でも大半の候補者はそんな感じだと思う。

それで何を選べというのだろうか?

10年ほど前だけど、近所でやってた某党議員の演説を聞きに行ったことがある。
ちなみに足を運んでるのは私1人だけだった。

その人はチラチラと私を見つつも、さも大勢居る観客に声をかけるかのように演説していた。
目の前の1人に集中して話してみれば熱意とか意見とか伝わるかもしれないのにな、と残念に思っていた。
最後までじっくり聞いていたのだけど、結局終始そんな感じ。

だから某党が芸能人使いたくなる気持ちもわからんでもないんですよね。

それほど政治家さんが人を引き付ける力に長けてないし、そもそもそういう技術が無い。
私がもし選挙出るなら、少なくとも数年は劇団にでも入って色々と習得してからだろうなと思った。

いや、そんな予定は微塵にもありませんが。

確かアメリカは演説の原稿、立ち振る舞い、スタイルなど全てが管理されているらしい。
政治家という1つのチームに対する評価になるため、みんな全力なんだろう。

ヨーロッパはどうなんだろうか。
詳しくし聞いたことも無いのでわからないけど、なんとなく人の資質や考えで選んでる気がする。
なんとなく表現するなら腕の良い技術者を選んでるようなイメージ?

では名前を連呼するのが中心の日本は何を伝えて、何をしていきたいんだろう。
そのために何をしていく必要があるんだろう?

汗を尊ぶのはご尤もだけど、もう少し近代的な考え方になる必要があると思う。
日本の進む「正しい道」はそこにあるんじゃないかな。