2013年6月25日火曜日

ボトルシップ・マン

漠然と「これを作りたいなあー」と思うものがある。
ただゴールの姿は見えてるのに、その道順がわからないことが多い。

なので、うーん...と悩んでしまう。

これはいっぱい考えて、組み上げて、頭の中で出来上がったもの。
それを取り出せなくて苦しんでいる、と言い換えることが出来るかもしれない。
出来上がったものに対しての出入り口が小さすぎるのだ。

多分、頭の中でボトルシップを作ってしまったのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97

元々部品を素直に外で組めば良いのだと思う。
そうしたら風呂でだって川でだって海でだって船を浮かべることが出来る。

ただ、たまたまボトルの中で作ってしまったからそれが出来ない。

この世の中の多くは、そうしたボトルシップ・マンがいっぱい暮らしていると思う。
私もそのうちの1人だと思うのだけど、組み上げたアイデアをどう頭の中から出すのかで悩む。
簡単に考えると丁寧に部品を外し、少しずつ外に持ち出せば良いはず。

なのだけど、何せ会心の出来栄えだ。
何とかしてそのまま瓶から出せないかと悩んでしまう。

しかもボトルが透明なら良かっただろうに。
これがまた骨に覆われ、皮膚に覆われ、中身が見れないと来ている。
だから唯一の口から、その見事な姿を必死に言葉で伝えようとしてしまうのだろう。

しかし悲しいことにそれでは伝わらないから頭の中だけで孤独な航海を続けていくことになる。

もしかすると町ですれ違う人はみんなそんな孤独な船乗りなのかもしれない。
人というのはなんとも、器用な分だけ不器用であるね。

2013年6月24日月曜日

topgear

先日、相方とtopgearをチビチビと見始めました。
現在シーズン7まで来たんですが、本放送はもう20まであるんですね。

中身が良い意味で「イカレてる」のが凄く楽しい。
実験なのかただの無茶なのか...いや、ただの無茶な実験なのかな。
わからないんだけど、その実験や表現についてちゃんとした基準や理屈があって安心できます。

番組のつくりに必ず驚きと納得の繰り返しがあるのが良いですね。
だからでしょうか、オッサンが楽しそうにヒートアップしてるのを見ててカッコ良く感じます。

メイン司会のジェレミーなんて、ただの偏屈なのにね。

でも変なところは変、ダメなところはダメ、おかしいところはおかしいとちゃんと言ってくれる。
見ていて「どうなんだろ?」って気になるところをちゃんと指摘するから、なるほど!と思える。
もちろん、褒めるときはしっかり褒めるのも良い。

日本のバラエティみたいに冷やかし風じゃなく、真剣にやってるのが素晴らしい。

だから自分のイメージだけでこういう印象になってたんだなって感じることも多い。
逆に考えがあってた!っていうところも多い。

こういう見る側と縁者に共通点が出来る番組はやっぱり売れるよね。

topgearを見た後にスカパーでチラッと見た車の番組があったんだけど...なんかヌルい。
知識がある人が知識がある人に伝えてるというか、知識がない人はおいていかれるというか。
聞いていて「これが言いたい」ってポイントが全然つかめない。

見ていて凄く不思議だった。

だって方や英語の、細かい表現なんてわからない字幕のテレビ番組。
もう一方は自分と同じ日本語を使っているテレビ番組。
普通に考えたら前者に出番はないだろう。

でも言いたいこと、体温がしっかり伝わってくるのは圧倒的に前者だ。

だから面白く感じるのもやっぱり前者だし、また見たくなるのもやっぱり前者だ。

これはもしかすると「外国かぶれ」になった私の偏見なのかもしれない。
でも疑問をしっかり形にしたり、それを伝えようと色んな手法を取ったりする事は良い事だと思う。

そう言う意味でもtopgearは「よく考えられた番組」だなと感じる。

使用機材:appleTV

使用サービス:Hulu






2013年6月22日土曜日

視力

私は視力が低いのでメガネが手放せない。

しかし先日、ちょっとしたアクシデントがあり歪んでしまった!
目というのは人の脳が光を取り込み、情報を判別するための道具だ。
その道具の性能がおかしくなり、メガネという道具で補正している。

考えてみると非常に不思議な話でもある。

例えば割れたお湯飲みがあるとしよう。
それでお茶を飲むにはヒビ割れをなんとかする必要がある。
普通ならヒビ割れをなんとか埋めたり、お湯飲みを交換する方法をとると思う。

ただ目は内臓であり、なかなか治療や交換が効くものではない。
ではどうしたかというと...例えるなら割れたお湯のみを大きめのドンブリの中に入れて、そこにお茶を注いでいるような感じだろうか。

お茶を飲むにはもちろん不便だ。
慣れてしまえばどうということはないものの、やはり素直に飲むほうが良いに決まっている。

そう考えると少し前に流行った「メガネ男子」なんかは不思議な現象かもしれない。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%8D%E7%94%B7%E5%AD%90-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88/dp/4757211740

ところで久々にメガネを外していて、ふと面白いなと思うところがあった。

メガネのない世界は単純に視界がボヤケていて、輪郭がハッキリしない。
室内だとわかりづらかったんだけど、外に出たときに「この絵はどこかで見たことがある!」と興奮してしまった。

いや、まあどこかで見たことあるって家の前だからね。
毎日見ている景色ではあるわけで、見たことがあるのは間違いない。
でもなんというか、妙に受ける印象が違っている。

なんだろう、なんか気になるな...頭の中で引っかかってるな...
そう思って考えてみたら、どうも写実主義と印象派の絵の違いに辿り着いた。

先日足を運んだウィーンのレオポルト美術館で見比べた感じに近い。
相方から話は聞いてはいたのだけど、なんでこんな表現になったのか不思議でしょうがなかった。

絵に輪郭を用意しないとは余程の変わり者か天邪鬼か...
とか思っていたのだけど、初めてその技法に気がついた人は目が悪かったのかもしれない。
だから自然と暗い絵よりも明るい絵を描くようになったのかな?と。

いや、いつもの勝手な推測なんで的外れかもしれないんだけどね。
もしそうだとすると、自分の目は凄く贅沢だなとも感じる。

結局はドンブリの中のお湯飲みではあるし、正直メガネなんて面倒くさい。
だけど目の前には写実と印象の二つの世界が常にあり、それを自由に選ぶことが出来る。
視力が良い人と比べると二面性のある世界をしっかり楽しめるのだ。

なのでたまにはメガネを外してボンヤリ歩いてみるのも良いのかもな、と思えた。
予期できないアクシデントもなかなか良い発見になるものだね。

2013年6月21日金曜日

幼虫小劇場

先日会社の入り口にダンゴムシが居た。
踏んで潰さないように指でつついて丸まらせて、安全なところへポイ。

ダンゴムシ、達者でな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A0%E3%82%B7

その後ろには何故かカブトムシの幼虫のような生き物が居た。
体は白くて顔や足が黄色っぽくて、尾の先?には黒い内臓的なものがある。

なんとなく馴染みのある「This is 幼虫」みたいな幼虫だった。

これも潰さないように捕獲...しようと思ったのだけど、指で触るのは嫌だな...
そう思ったのでイラナイ紙を持ってきて、保護して、土の上に捨ててこようと判断。
早速実行に移してみた。

まずは紙を破いて適度な大きさにする。
それでチョン!と突く。

と「やーらーれーたー!」みたいなオーバーアクションの後、バタッと動かなくなる。

死んだかな?と思って観察してたら、少しの時間が経ってから動き出した。
紙の上に載せるためにもう一回やってみると、また同じ反応。

子供に「バーン!」と撃たれて「やーらーれーたー!」ってやるお父さんみたいな...
その大衆演劇、どこで習ったの?と聞きたくなるような大根演技っぷりだったのだけど、自衛本能なのか?
誰も何も教えてくれない幼虫でもこういうことやるんだな、と感心してしまった。

だってあいつら孤独で土の中にいるんだよ?

結局紙の上になんとか載せ、無事に土の上へ移動。
変なのに襲われなきゃ、無事に生き抜いてくれるでしょう。

そしていつか成虫になって再会したときには松田優作さん張りの演技で度肝を...
http://www.youtube.com/watch?v=gjl8ovjOm5A


死の概念

人の最終目標って言うと、多分「不老不死」になるんだろうな。

文明って言うものに気がついてから...
いや、支配されてからは少なからずその方向に向かっていると思う。
多分全ての生き物の中で、唯一「死に対する恐怖感」を持っているんじゃないだろうか。

そしてそこから逃げている。
逃げて逃げて逃げ切ろうとしている。

ただ面白いのが、距離をとれば取るほど恐怖感は増している気がする。
社会が少し過保護になってきているのはその表れじゃないだろうか。
同時にその恐怖感が文明という生き物の正体なのだとも思う。

ところで不老不死に辿り着いたとして。
人にとって死と言うのが身近なものではなくなる、もしくは概念化する。
その中で「終わり」への恐怖を持ち続けるのか、それとも興味や渇望を持つのかが気になる。

何故か。

簡単な話、普段であれば人は空気が失われたら?なんてことを考えることは無い。
それは無くならないという、ある程度「暗黙の前提」があるからだと思う。

例えば江戸時代などは彗星が来るなんて話があれば息を止めてやり過ごしたなんて話がある。
これはどこからか「彗星が空気をもっていってしまう」なんて噂が出てきたかららしい。
当時の天文学がどこまで進んでいたかは知らないが、非常に面白い現象だ。

というのもこの話、彗星をやり過ごしてしまえば安泰となってしまう。
言い方を変えると「危機が去れば空気が無くなることはない」となるのだろうか。

逆の例として空気の喪失に恐怖を感じるのは洞窟、潜水艦などの閉鎖的環境が挙げられる。
この状況であれば多くの人が「もし崩落したら」「何かの故障で」と考えてしまうだろう。
実際にそんなことが起きていなくても、気分だけで少し息苦しくなる。

しかしそう極端に考えなければ「空気が無くなるなんて」と思うのが普通じゃないだろうか。

だからもし今後不老不死に辿り着いたとして。
死の概念から今よりずっと遠ざかり、意識すらもしなくなったときに「どう考えるか」が気になってしまう。

野生動物や文明に触れる前の人間などは死の概念を持っていないと思う。
多分「油断すれば終わり」というくらいに死という存在が近いからじゃないだろうか。

私たちで言う空気のように、当たり前にそこに存在するもので特別に疑う必要性が無い。

文明に生きる上で感じる「恐怖」というのはもしかすると概念を持ってしまったからかもしれない。
栄養価が変化し、より身の危険から遠ざかることで、身近で見えなかった死というものが視覚に入ってしまった。
だから一目散に逃げることで、自然と不老不死へと向かっているのだろう。

でも遠ざかれば遠ざかるほど怖くなる。
逃げても逃げても逃げても、後ろを振り返ればいつもそこに居る。

人は文明化してまで死の概念から逃げている。
だけど面白いもので、自殺というのは環境の良い国や先進国の方が多いらしい。
どちらかというと死の概念に近い国や地域のほうが恐怖感を感じていないのかもしれない。

だとすれば。

人がこの先不老不死に辿り着いたとしても恐怖に終われて生きて行くだろう。
まるで西遊記のように、ヤンチャなサルは釈迦の掌から抜け出すことはできないのかもしれない。

そして生きて逃げ切れない恐怖に対して打てる手段は...
と結論を書くと怖くて寝れなくなるかもしれないからやめておきましょう。

2013年6月20日木曜日

ハナタレ小僧の見たアメリカ

今よりも遥か昔の話。
三保の海へ来た私は海の向こうに見える「それ」を見てこう思った。

いつかアメリカ行ってみたいな!

しばらくして「それ」がアメリカではないことに気がついた。
私がアメリカだと思っていた「それ」は伊豆半島。

知識がある今では「ねーよ!」と笑えるものの、当時は凄く真剣だった。

当時の私は駿河湾を太平洋だと思っていた。
というのも「海の向こうはアメリカ」という教え方をされたからだろう。
だからこの考えは間違っていない!と、今でもそう思っている。

素直な良い子じゃん!...とは流石に思わないけど。

でももしかすると、小さな私には「アメリカ」がちゃんと見えてたのかな?って気もする。
全てを知る前はその海の向こうでどんな人達がどんな生活をしているのか。

毎日ワクワクしながら考えていた。

今となってはあまりに遠い記憶となってしまった。
延々と先の見えない海で遮られていて、私の「アメリカ」がどんなものなのか思い出せない。
だけど「それ」を見る度に、目を輝かせてるハナタレ小僧の姿が見える。

...待ってろよ、いつか連れて行ってやるからな。

2013年6月19日水曜日

入山料

世界遺産に選ばれた富士山に入山料が課されるらしい。
その額、1人あたり千円。

...随分安いな。

というのが実のところの感想だったりします。
確かに手ごろではあるんだけど、軽く手が出そうでちょっとヤラシイ額だなー。

ちなみにヒマラヤの場合は最低が10人で5000ドルだから1人頭500ドル程度らしい。
http://www.kachispo.com/k/124/

1ドルを100円とすると5万円か。

世界一の山だからっていうのもあるだろうけど、妥当かなと感じる。
危険であるし、何より管理が難しいのだからある程度高くて当然だと思う。

それから行くと富士山もどうだろうな...最低1万円は取った方が良いんじゃないだろうか。

ある程度の費用が集まればゴミ拾いなどもボランティアに頼らなくても済む。
そこに雇用が生まれれば「山が好き」というだけでも、それなりに生活をしていけるかもしれない。
生活サイクルの中にしっかり組み込めれば、本当に意味のある世界遺産になると思う。

そもそも私はボランティアという考え方が凄く嫌いなのだよね。
というのも、それは対価が見えない労働だからです。

これが短時間、短期間だったら経験という対価も期待できる。

その経験を元に起業したり、新しいアイデアを具現化したりすることで得られるものがある。
逆に長期間続いたり定期的に規則正しく行われると、その具現化、アウトプットの機会が奪われてしまう。
それでは仮に得られた経験も生かすことができない。

奉仕というのは聞こえは良いのだけど、度を過ぎれば悪影響になる。
得にこういう公共の問題において考える場合「対価」というのは常に頭に入れておく必要があると思う。

得に世界遺産で観光を思うなら、まずゴミ拾いやガイドの出来るプロフェッショナルを作る必要がある。
それには雇用もそうだし安全で確実なシステム作り、例外を認めない厳格なルール整備などが必要になってくるはず。
なのに入山料1000円という数字がそれをちゃんと想定できてるのかと考えると、正直疑問なのですよ。

同時にその思考サイクルの破綻がどうも日本の足を大きく引っ張っているなと思うわけです。
だって新しく火を熾すのに薪の用意もしていないのはおかしいですよね。

まずは少しでも長く火を灯すにはどうするかを考えないと。

だから専門知識や経験、それから好奇心や意欲。
日本一として胸を張るなら、まずこれを正当に評価して生かして欲しいものです。
そのサイクルが出来てこその文化遺産じゃないかと思うのですが...

なんで勉強するの?

不思議なもんで、学生から遠ざかると勉強の重要性って言うのが見えてくる。
だけどそれを現役の人に、例えば子供に聞かれて答えを伝えることが出来るだろうか?

私には少し自信がない。

手段は幾つかあると思う。
勉強しないとこうなっちゃうよ!というネガティブな話もそのうちの1つだ。
ただそれは、目の前にある分野に対する否定にもなる。

もし将来その分野に触れることがあれば、植えつけてしまったネガティブな視点はそこで花が咲く。
そうなると彼にとっては大きなマイナスになってしまう。

逆に勉強するとこういう良いことがあるよ!というポジティブな方法もある。
しかしそれは今彼の興味が向いている先には絶対に勝てない。

子供であれ大人であれ、後で満腹になるものより今の空腹を満たすほうを選ぶだろう。

しかしよく考えてみると私はこの質問自体に二面性を感じてくる。
勉強に興味があればこの質問は浮かばないが、もし興味自体がなければ聞いてこないはずだ。
もしかすると勉強の内容より、勉強をする「行為」自体に目が向かっているのかもしれない。

ここに何かのヒントや落とし穴があるような気がする。

子供がビデオゲームをやっていて何故楽しめるのか。
それは恐らく行為に対してのレスポンス、反応が早いからだと考えられる。

ゲームはAボタンを押せばどうなる、Bボタンを押せばどうなるというのがハッキリしている。
その行為は目の前の画面に即座に表示されるし、その正否も直ぐわかる。
だから一つ一つの調整、修正が効きやすいのだ。

ではゲームと比べて嫌われる勉強はどうか。
興味を引き出すように作られていないというのもあるが、成否までの反応が遅い。
そのため短時間で何か行為の手応えを得ることができない。

同時にそれは自分を長時間コントロールする必要があるということでもある。
多分、大抵の人が行為に疑問を持ってしまうのはそこなのだろう。

これを大人の仕事に例えてみるとこうなるかもしれない。

あなたは上司に指示されて大きな穴を掘る。
ただそれは何の意味があるのか、何に使うのかを知らされていない。
しかし毎日のようにそれをし続ける必要がある。

地中には多くの情報がある。
虫もいれば土や砂の状態、種類の変化もある。

しかしそこに興味を持てるのは余程珍しいタイプの人ではないだろうか。
大抵の人間は途中で自分がしている行為に疑問を感じるはずだ。

大人であれば別の仕事を探し、それにつくことができる。
だが子供は勉強という意味のわからない穴掘りから逃げることが出来ない。

それならどうするか。
穴掘りの後の話をしっかりすることが大切だろう。

例えば建築関係に興味があれば、君は勉強をすればあそこのビルを建てることが出来る。
ただそれには幾つかの知識が不可欠で、それを生かすにはこれらが必要になる。
そういう話を出来るかどうかでその穴掘りの価値は大きく変わる。

ではそれを伝えるにはどうすれば良いのか。

恐らく特別難しいことではないだろう。
周りの大人が勉強の理屈、面白味や構造、発展性を理解していれば良い。

君が理解すれば、また次の世界が見えて来るんだよ。

そう言って、ビデオゲームにおけるコンピュータの代わりをしてあげれば良い。
後は知識をただ詰め込むだけじゃなく、それをアウトプットする方法を一緒に考えて実行する。
ある意味では意味のわからない穴掘りに対して、子供以上に真剣に向かい合うことかもしれない。

私も例に漏れず勉強には疑問を持っていたし、ビデオゲームのほうが面白かった。

それでも今、この年になって勉強の楽しみというのが理解できている。
生きていればいつか理解できるものなら、きっとそのときにだって伝わるものだろう。
子供のときと特に違っているのは「アウトプットとの距離」かもしれない。

今は勉強したこと、考えたことが直ぐに実践できる場に居られている。

なので机の上に無く、紙の中に無い知識を吐き出す先を見つけること。
それが出来れば退屈で無機質な穴掘りも、大切な行為と感じられるのではないかと思う。

2013年6月18日火曜日

イタリア人からイスラエル人へ。

お前はイスラエル人だな。

札幌時代に凄くお世話になった先輩の一言。
そのときの話題はと言うと「何人に似ているか」というものだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E4%BA%BA

ところで、何故にイスラエル人...

先輩曰く「人の話を聞かないし意志を曲げない」かららしい。
彼が思うところのイスラエル人というのは余程頑固な存在だったのだろう...ということは私も?
我ながら結構柔軟な人間だと思っていたのだけどな。

それと、とにかく理屈っぽいところ。

これに関してはわかる気がする。
多分、今、blog読んでくれてる人の大半が頷いただろうな。

話はそれからさらに遡るんだけど、別の人から「あなたはイタリア人になれ」と言われたことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA

確か女性にモテナイのを相談したのだったと思うけど、その時は真面目すぎるからダメなんだと言われた。
その人曰くもっと軽薄になりなさい、もっと気楽に生きなさいと。

もっと言えば「良い女が居たら即口説け」、「とにかく相手を褒めろ」と。
確かにそれまでの私は真面目にネガティブだったし、相手の欠点ばかりが目に付いていた。
今考えると、そんな人生面白くないだろ?というニュアンスだったのかもしれない。

それ以来は出来るだけ良い部分を探すようにした。

失敗の中にも成功の種があるように、悪い中にも良いものがいっぱい見つかった。
それで出来上がったのが...何故か「イスラエル人だった」というのがなんとも不思議な話ではあるけど。

よく相手の褒め方がわからないって話を聞くことがある。

その人を見ていると、どうもそのときの私と同じように真面目にネガティブな人が多い。
多分、型に嵌ろうとしすぎて柔軟性が失われているのかもしれない。

私もそのときに非常に苦労した記憶がある。

色々試した結果上手くできたのは「特徴を見つけて、それをひっくり返してみること」だった。
そうしてみると長所だと思っていたところは意外な欠点になったり、短所は思いつかなかった利点になったりする。

大切なのは自分から見た長所短所じゃなくて、それを生かせるところで生かせるかどうか。
真面目さというのも同じで、それを上手く生かせていなければ欠点になってしまう。

それを知るには一回自分の目線を出来上がった価値観から外すことが必要になる。
私にとっては多分「イタリア人になれ」という一言がその機会だったのだろう。
最初は戸惑いながらも、手探りながらも徐々に理解が出来てきた。

それからは恋人も出来たし自信も持てたし...と、金以外は怪しげなグッズの売り文句のようになった。
結局の話、目の前の機会を生かすも殺すも自分の心がけ次第なのかもしれない。

これらの大切なものを教えてくれたその一言は、きっと生涯忘れられない存在だろう。

2013年6月17日月曜日

宿題考察編

ARTORO第一回の宿題で出たのが「稲を発芽させてみよう」というものの考察編です。
http://toro-museumshop.jp/artoro

私はヘルシアのペットボトルとカップヌードルのカップに土を入れ、種をまいてみました。
http://geshimashita.blogspot.jp/2013/05/artoro_26.html

しかし手を加えずに基本的に放置しました。

3週間の間、水をやったのも一回(カップヌードルのみ)だけ。
カップヌードルは一度雨で水没したんで、水を少しこぼしました。
後はホントに忘れるくらい放っておきました。

理由は簡単で、植物は条件が揃えば勝手に発芽するから!...です。

結果としては勝手に発芽しました。
しかも結構元気に伸びていったので一安心。

これは考えるのに必要な”良い材料”になりそうだぞ。


実は登呂遺跡の高床式倉庫を見てから凄く疑問を持っていました。
竪穴式住居と同じく弥生時代の象徴とも呼べるものなんですが、何故あのような違いになったのか。

突然ですが、人間は基本「逃げ」の生き物です。
起きた結果から現象を捉え、それを意図的に再現することで数々の理屈を積み上げてきた。
言い方を変えると立ち向かわないことで”焦点を合わせる作業”が出来たのだと思います。

例えば火からは熱いから逃げる。

それでどこまでの範囲が熱いのか。
どこからが物質が変化(燃焼)するのかを把握できたからこそ管理ができるようになりました。
恐らく危険な動物に対しても、変化する天候も、植物においても同じでしょう。

だから高床式倉庫にしても何らかの「逃げ」があったと思うんです。
それがなんなのか、凄く気になっていました。

竪穴式住居と高床式倉庫を比較して見ると面白い違いがあります。

前者は下に掘り下げているのに対し、後者は上へ。
表現に私の理屈を取り入れるなら「高床式は大地から逃げている」となるでしょうか。

一体何故なんでしょうね?

多分、一番のポイントは湿気対策でしょう。
昔は風通しを良くすることで穀物の保存状態を良くしたというのを授業で習いました。

しかし変な話、直ぐに腐って食べられなくなるものなら保存にそんなに固執しないと思うんですよ。
植物だから生えてる時は食べる分だけ採れば良いし、無ければ無いなりに別のものを探す。

そもそも食べるものが全く無ければ、この地方は発展して無いでしょうしね。

あれこれ色々と考えた挙句、出てきたのが「勝手に発芽しちゃうんじゃない?」という仮説でした。
中学で豆か種か忘れたけど水とコットンとシャーレで発芽させる実験があったはず。
確か発芽の条件は水、温度だったような覚えが...

今回の実験の結果、やっぱりある程度は放っておいても芽は出る。
得にヘルシアは特別何もしていないわけだから、やはり湿気程度でもなんとかなりそう。

ということで得られた事象を、勝手に当時を推測しながら並べてみました。

1.どこかで稲の種を貰った。
2.保存が利くと聞いたので土器に入れて家で保存していた。
3.家の湿気と火による熱で発芽した。
4.一口食べてみるも「これじゃ食えない」とどこかに捨てた。
5.しばらくすると大きく育ち、実った。

このうち3.を回避するための高床式倉庫じゃないでしょうか。

保存状態を良くする考えって現代だと「腐らせない」になると思うんです。
でもそれは発芽条件を知っていて、その先の状態や流れが把握できてるからの発想。
当時なら発芽も腐敗も同じ状態の変化なはずなんです。

だから意図的に苗を育てたんじゃなくて、結果的に苗になってしまった。

結果は同じでも考える上で、この視点の違いはかなり大きいんじゃないかなと思います。
方や前向きな積極姿勢、方や後ろ向きな消極姿勢ですからね。

ただ捨てたはずが食えるようになった、少ない量だったのに増えたという衝撃は大きいはず。
よく「稲作が伝わった」って簡単に言うけど、そんなにパッと受け入れられないですよね。

畑でもない、水田でもない、身近などこかで稲の強さを認識する。

そこで初めて稲作を受け入れられる土壌ができるんだと思います。
しばらくして、もっとやりやすくしたい欲求が出てから地盤、農具の問題が生まれてくる。
それをするにはどうするかを考えた先に役割分担が出来る。

栄養状態が良くなれば、自然と勢力に差が現れる。
そして政治、宗教などの組織的なもの、近代化へと繋がっていくのでしょう。

だから文明とは単純な「成長発展」ではなくもっと消極的なものなのかな、とも思うのです。

今回の実験はそういう長年の疑問に向き合うのに凄く重要だったと思います。
同時にもっと早くから挑戦していれば、私は今の私とは違う私だったのかもしれません。

そう考えると...やっぱり消極的過ぎるのも良くないことなのかもしれないですね。

2013年6月16日日曜日

コッツウォルズ

先日、BS日テレの「世界水紀行」という番組を見ていた。
http://www.bs4.jp/w_mizu/

最近のテレビは綺麗だ。
そして画面が大きいからこういうゆったりとした旅番組が凄く映える。
BSだけじゃなくて普通の地デジもこういう感じになってほしいな。

今、素直に「わくわく動物ランド」とかやったら面白いのかもね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8F%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

それはさておき、水紀行。

今回の旅はイギリスのコッツウォルズだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BA

実は新婚旅行でウィーンと最後まで争ったのがここだった。
水が綺麗だし自然は多いし、この長閑で静かな景色を二人で味わうのも良いな...と考えていた。

今や足を運ばなくてもネットで雰囲気が伝わるような時代。
動きや音を連れてきてくれるテレビなら尚のこと、そこに行ったかのような気分になる。
だから見ていて「やっぱり素敵だな」と感じた。

歴史や文化を紹介されながら、その見事な景色を見てまどろむ。
その中で、私は何故か不意に違和感を感じた。

テレビに映る景色、歴史に憧れを感じている自分。
だけど、今私がそれを感じることが出来るのはテレビという文明の機器があるからだ。
それが無ければ私はここに触れることも、憧れることもできなかった。

言い方を変えると遠い国の私が触れられるものではなかったから。
知りえることがなかったからこそ維持されたものでもある、と。

文明化というのはある程度、文化や歴史、景色などを否定することで成し得る物。
私のところまで情報が届くまで、私が心地良く感じるまで多くの否定があったのだろうな。

そう考えたらその矛盾が妙に気になってしまった。

ウィーンでも感じたのだけど、文明と文化、歴史や景色はなかなか共存が出来ない。
共生することはできるが、その意味合い、姿形をそのまま変えずに過ごすのは難しい。

何よりその景色もそうした変化があって生まれたものだ。
変化を否定してしまえば、それらの成り立ちすらも否定せざるを得なくなる。

そこで多くの矛盾に支えられた世界に対し、うーん...と考え込んでしまう。

今とは一体どんな存在なのか。
文明という生き物に少し尋ねてみたい気がした。

2013年6月15日土曜日

モーツアルトの出勤

ウィーンで一番印象に残ったのはなんだろう?
1ヶ月程経った今、改めて振り返ってみる。

建物、歴史、街並み。
思い出してみるとキリが無いくらいの衝撃。
その中で一番これは!と強く印象に残っていることと言うと「モーツアルトの出勤」かな。

泊まったホテルの前にはオペラ座がある。
http://www.wiener-staatsoper.at/Content.Node/home/Startseite-Content.de.php

ここは第一次世界大戦。
オーストリアが枢軸国として敗戦した戦争で全壊した場所だ。
現在は復元され、その後は今も様々な演劇やコンサートの会場として使用されている。

で、そこには楽友協会なのかダフ屋さんなのかわからないんだけど、手売りでチケットを販売。
なので日本人が通りがかると「コンニチハ、コンバンワ、オ元気デスカー?ワタシ日本大好キヨー」と怪しげな日本語が投げかけられる。

その人たちの格好がまるでモーツアルトなのだ。

白髪のカツラに...大人し目のタケちゃんマン?みたいな上着にスパッツのような格好。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=7WCyTht60bM

よくわからないんだけど、そんな人たちが毎日のように余ったチケットを売っていた。
でも取り締ったりしてないみたいだからちゃんとした仕事なのかな...

朝の9時ころ、彼らは急に現れる。

普段どこで着替えてるんだろ?と疑問に思っていたのだけど、売り子をする格好。
そのままで地下鉄のエスカレーターをそのまま上がってきたのだ。
隣のトラム(路面列車)の駅方向からも数人やってくる。

中世みたいな街中を現代人が歩く中、自然な顔してモーツアルトが歩いているのだから驚く。

日本で言うと仮面ライダーショーの出演者が家から仮面ライダーで来るみたいな感じだろうか。
それとも家から侍や忍者が映画村に出向くような?

しかしそれがさも自然で、本人たちからまったく違和感を感じない。
むしろ驚いていた私が変なのかな、という気分さえしてくる。

彼らだけでなく、観光用の馬車(フィアカー)も朝になるとその姿のまま「出勤」してくるのだ。
http://www.wien.info/ja/sightseeing/fiaker-horse-drawn-carriage

車道をカッポカッポと進む馬車。
もちろん右折や左折も自動車と同じように行うし、しっかりナンバーもついていた。

彼らにとってはそれが作業服であり制服であるわけだから、それがきっと自然なのだろう。

でも私には街並みや美術品達以上に衝撃を受けた出来事だった。
状況を考える限りではまあ確かに、とは思うものの...

2013年6月14日金曜日

宇宙人と顕微鏡

中学生のころ、理科の実験で池から水を採取してきた。

それをスライドグラスに載せて、顕微鏡で眺める。
するとふと人のようなものが見えた。

おかしいな?なんだろ?

顕微鏡から目をはずして確認してみたけど、誰かのいたずらじゃないらしい。
もう一度眺めると目が合った、そして慌ててゾウリムシの後ろに隠れた。

動きや姿が凄く人っぽいのだけど、どうも人じゃない。

これは小人?それとも宇宙人?
わからないまま時間は過ぎ、結局そこからは何もないまま季節が過ぎた。

数ヶ月経ってから再び採取する授業があった。

またカバーグラスをして、顕微鏡で眺める。
すると今度は数人で狩りをしている人のようなものが見えた。

おかしいな?またか?

彼らは集団でミジンコを襲っている。
落とし穴に誘い込み、槍を持ち、ミジンコを討っている。
多分今日の食事なのだろう。

そんなことを考えてるとまた目が合った。

彼らは小人?それとも宇宙人?
わからないまま時間は過ぎ、結局そこからは満足そうな彼らを眺めて終わった。

数年経ってから、ふと空を見上げて見た。

何か透明な、光る何かが見える。
もしかするとその先には...と思い、私は手を振ってみた。

誰かと目が合った気がする。

私たちは小人?それとも宇宙人?
わからないまましばらく、その不思議な何かを眺めていた。

待ち合わせ

ウィーン新婚旅行のときに、H.I.S.さんのオプショナルツアーでホイリゲへ行った。
http://activities.his-vacation.com/jp/jp/CityTop/VIE.htm

実はそこで飲んだワインが未だに忘れられずにいる。
半ば中毒のように酒屋を巡っているのだが、オーストリア産は流通量がないらしく見当たらない。
そこで「仕方が無いから」というと失礼だけど、現在はドイツワインで喉の渇きを潤している。

土地柄が近いだけあってなんとなく味が似ているような...?

ホイリゲツアーでの待ち合わせは「アルベルティーナ広場」だった。
現地に着く前は正直行ってもどこかわからないんじゃないか?という感じ。

だって「広場」って言うと微妙だよね。

なんか駅前のちょっと開いてるところっていうか...
多分待ち合わせで使うくらいだから渋谷のハチ公前くらいの感じだろう、というイメージだった。

結論を言うと考えが甘かったね。
http://www.ryoko.info/vienna/024vienna.html

そこにあったのはこんなに凄い広場があるのか!?っていう彫刻の数々。
印象としてはハチ公とかモヤイ像前じゃなく、ロダンの地獄の門の前。
なんだろう、この凄すぎて逆に迷う感じは。

ホテルから近かったから良かったものの、遠かったら少し背筋が凍る展開だったかもしれない。

ところで広場っていうとどんなものだろう?と気になったのでいつものWikipediaを検索。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A0%B4

日本だと皇居前、札幌の大通り公園なんかがそれにあたるらしい。
世界的に言えば中国の天安門、ロシアの赤の広場なんかがニュース的にも印象深い。
なんだ、言葉通り凄く広いんじゃん。

というより不思議と戦車のイメージしかないのはナイショだ。

それで何故にこんなイメージになったのかを考えてみた。
恐らく「歌広場」というカラオケ屋がパッと出てきたのでそういうことなのだろう。
http://www.utahiro.com/

なのでウィーンへ行ってみて、私の発想力は貧困だなとつくづく感じた。
もう少し人間としてのスケールを上げて行かないとダメだな...

2013年6月13日木曜日

芸術に対する疑問

先日見ていたテレビで「現代芸術の紹介」コーナー?みたいのがありました。
そこで紹介されていたのが錯視アート、目の錯覚を利用したものが紹介されていました。

見ていて「これって芸術なんだ?」と。

番組内では開発した教授が遠近法を利用した...ルネサンスから...と説明してくれてましたね。
聞いてて良くわからなかったんだけど、なるほどなーという感じでした。

それで翌日機械を修理していて製品の変化を見たとき、急に合点が行きました。
ずっとこれまで芸術ってなんだろうという疑問を持っていたんだけど、なるほどこういうことか、と。
先日野焼きで聞いた本原さんの話ともやっと繋がりました。

何かと言うと、多分「科学技術の結果」なんですよ。
これがわかったとき、やっと頭の中に刺さってた小骨が抜けた気がしました。

単純に表すなら、AにBという条件を加えて生まれたものがCとなる。

先日の野焼きの場合だと 粘土(A) に 熱(B) という条件を加えて生まれたものが 焼き物(C) となる。
だから狙い通りの 結果(C) を作り出すには 粘土(A) の状態、 熱(B) の条件を確保し確定する必要がある。

結果、その結果が平面なら絵になるし、立体なら彫刻や焼き物などになるのだと思う。

これを過程を重視して科学の分野でやれば実験。
生み出されたものに価値を見出すことが出来れば芸術というカテゴリーの中に入る。
だから前の人が何をやったか?ということを勉強しなくては、次の段階に移れない。

なるほど、わからんはずだわ。

同時に作品というのはその時代、その地方において「どれだけ技術が浸透しているか」の指標と成る。
だから見るこれは遠近法が生まれる前の時代のもの、これは絵の具などの鉱石採掘技術、運搬能力が伸びた時代などいうのがわかる。
そのために残さなくてはならないし、そのためにしっかりとカテゴリ分けしなくてはならない。

作品はそれだけの価値じゃなくて、遠くから見れば一つ一つがパズルの欠片になっている。
なるほど、だから良く聞く話なんだけど「表現一辺倒で何かをする」っていうだけじゃダメなのか。
その考え方がちょっとだけ理解できたような気がする。

そう捕らえられたら、自分の携わっている仕事がそのまま大きな意味で芸術なんだろうなと思えた。
だって今の時代の科学技術の浸透により得られたアウトプットだもんね。

しかし、だとしたら自分は何を残せるのだろう?

仕事の製品と言われればそれは間違いなくあると思うのだけど、なんて言うかさ。
そのパズルの欠片の中でも「あ、こいつだ」ってわかりたいし、わかられたいじゃんね。
普段引っ込み思案で目立つの嫌いなんだけど、どうせ生きるなら...

と考えたところで、これが芸術家さんの頭の中なのかな?と少し触れられた気がする。
うん、いつかどこかでなんか残せると良いな。

2013年6月12日水曜日

地球はともだち

地球はともだち、ヤオハ~ン♪

というCMがあったのを知ってる人は私と年代が近いか、それ以上だと思う。
あと、静岡中心の生活圏だった人か。

その昔、ヤオハンというデパートに近いスーパー?があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%AA%E3%83%8F%E3%83%B3

今のイオンとかの走りになるのだろうか?
静岡を中心に店舗を構えていたのだけど、なんか妙に怪しい佇まいだった覚えがある。

デパートと比べると確かに華やかさがない。
おもちゃや日用品は安かったのだけど、品揃えがB級というか...メーカー品じゃなかった。
時代的に考えると、もしかするとニセモノも多かったのかもしれない。

というのも札幌へと移住前のこと。
そこで父が「腕時計は最悪質屋に預ければ金になる」と、高級品?の安売りを買ってくれた。
今考えると10万円クラスのが1万円弱になってるので怪しいとは思う。

ただ当時の私は「そうなのか、お父さんありがとう」と素直に思う、純粋な少年だった。

問題はというと、私は昔から時計の文字盤が読めない。
小学2年生のころに挫折して以来、未だにじっくり考えないと何時か理解できないのだ。
さらに左手につけるとどうも気持ち悪くなるため、右手に付けなくてはならない。

そういった相性の悪さもあったのか、時計のベルトがわずか1週間で壊れた。
移住先の近くにあった時計屋さんで修理をお願いしたら、なんと1万円近く取られた。

しかし純粋な私は「さすが高級品、ベルトも高いんだな!」という感じ。
貯めておいた小遣いで何とか支払い、その後も何かあったときに...という言葉を信じて使い続ける。

だけどその1週間後、今度は針が取れた。

また時計屋に行ったのだけど、修理代を聞いてさすがに「ねーよ!」と気づきました。
あわれ父が渡してくれた命綱はわずか1ヶ月ももたずに千切れてしまいましたとさ。

ですが、それでも思い出がいっぱい(H2O)。

ガンダムのプラモデルを買ったり、ゲームを買ったり。
誕生日に、父に対してトランスフォーマーを強請ったのもここだった。

そう言えば「○○個限定」というのに朝4時から並んだ思い出もある。
ちなみに10時開店だけど余っていたので全くの無駄な努力だったわけだが...
こんな経験も記憶に残って良かったのかもしれない。

小遣い片手に初めて1人で服を買いに行ったのもここだった。

その時はTシャツと帽子、それから何を買ったかな...
残念ながら細かいところは覚えてないけど、満足した覚えはある。

だからきっと良い思い出だったのだろう。

そんなヤオハンは私が札幌に居る間に閉店。
現在はイオン系列のマックスバリュー東海に吸収合併されているとのこと。

ヤオハンや、同じく潰れたダイエー。

当時の安い店はやっぱりどことなく怪しい雰囲気を持っていたな。
私の心にある古いアルバムの中は、気づけばそんな思い出がいっぱい。
果たして大人の階段はちゃんと上れているのだろうか?

しかし...これもまた歴史であり時代かー。

2013年6月11日火曜日

ARTORO参加記録 第二回目田植え その2

午前の部、田植えの前は野焼きを行いました。
http://toro-museumshop.jp/artoro

奥が本原さんの土器。
手前が前回作った食器を焼いています。

ちょこっとだけ手伝ったけど凄い熱かった...

朝8時半から用意が始まり、火が入ったのが10時ごろ?
私たちは丁度そのころ参加したんですが、結局17時の撤収ギリギリまでかかったようです。
それでも時間が足りなかったとか。

うーむ、土器を焼くのは難しいんだな。

本原さん曰く、登呂からは窯元が出てないとか。
今回の試みはそれで「もしかしてこうやって土器を焼いたのでは?」というテストをするという話らしい。

へ~、なんか良いね!
※実は行くまで話の趣旨を理解していなかった。



そして無事に?(かどうかは見てないのだけど)焼けた後も一苦労が。
一気に冷やしては加熱された土器が割れてしまうので、撤収時にはモミガラに入れて保温。
そしてジンワリジンワリ冷却をする必要がある。

たまたま見たら「焼けた土器にモミガラが引っ付く!」と楽しそうな悲鳴が上がっていました。

後で聞いたのだけど、モミガラ跡があるものは「食べ物に使われた土器」と仮定されてるらしい。
今回はモミガラが燃料になっているし、冷却法ではモミガラが引っ付いてしまっている。
なので、もしこの方法が正解だと歴史が一部変わるかもしれない。

うーん、興味深い話だ。

そうなると上の検証実験の写真みたいのが教科書に載るのだろうか。
ARTOROが教科書に載ったら面白いね(こういう妄想大好き)。

しかし実際はどんな話だったんだろうね?
どうにも一点気になったので登呂の人に聞いてみた。

火葬っていうのはあったんですか?

昔読んだ「マンガ日本の歴史」で、フグを食った家だったかな?
結局一家全滅しちゃって、そのまま火葬してたような覚えがあるのですよ。

普段土葬でも特別なときに火葬とかあれば、そこで焼いてた可能性もあるかなーと。
そうすると普段から焼けないわけだから、器を大事にする話にも繋がるような気がするし。
窯元が出てこないのも理由がつく!と思ったんですけどね。

残念ながらそう言うこと(火葬は)なかったそうです。
うーん、実際にはどうやって作ってたんでしょう?

2013年6月10日月曜日

ARTORO参加記録 第二回目田植え その1

今回は腹痛を起こしてしまいました。
ということで残念ながら見学で、実際にはやっておりません。
http://toro-museumshop.jp/artoro

田植え面白そうだったなぁ...やりたかったなぁ。

ただ、眺めていて妙な疑問がありました。
というわけで、楽しそうに田植えしてるのを尻目に時間を遡ってみます。

1.体験サポートセンター前へと集合
前回に出された宿題の提出と苗の話を聞く。
講師の米農家青木さんの熱い講義にプロ魂を感じる。

2.水田へ移動する
第一回で粘土を採取した水田へ移動。
苗を一輪車に載せ、あぜ道を行く。

3.田植えを行う
まずは青木さんが見本を見せてくれる。
パッと見て上手い人、下手な人、経験者と色々居たけどみんな大盛り上がり。
ちなみに気がついたら本原さんは素足で田植えをしていた。


...で、現在に至る。

こうして段階に分けてみると、最も気になる点としては2番の輸送かな。
今回はトラクター規格のサイズを一輪車で運搬したけど、当時はどうやってそこまで持ってきたのか。
それと、どこで苗を育てていたのか。

車輪などの道具が一般的でないなら水田の近くでプランターみたいな施設があるはず。
というのも一回どこかの地面で植えてるとしたら、基本的には移動させずにそこで育てると思うのですよ。
もし水田にするのなら、芽生えた後に水を張ってしまう方が良い。

実際稲森さんの企画展「米づくりの今昔」を見る限りではそういう類のものはありませんでした。
http://www.shizuoka-toromuseum.jp/event/detail.asp?r=68

主には耕作や収穫、その後という感じ。
唯一移動に使えるかも?って出土品は田下駄くらいかな。
しかも何に使われたのか良くわかってないらしいし...

ということで、もし「植え替えの二段階方式を取っていた」としたらを考えてみよう。

1.水路の川上で苗を一定期間育てる。
2.ある程度育った苗を土ごと掘り、板に乗せて水路に浮かべる。
3.そして水の流れに沿って紐か何かで引っ張る。

水路は繋がっているから、それは直接もって行ける。
後は到着した苗を水田に植えつけるだけ。

田下駄の浮力がどうなのか未知数ながら、水上輸送なら手軽だし車輪の存在は必要ない。
さらに言えば水と接することで根の乾燥を押えられるという一石二鳥っぷり。

これなら!...とは思うものの、残念ながらちょっと話が複雑すぎるわね。

今の水田のイメージを完成させるならこれで良いんだけど「必要性が母」であることを考える遠い気がする。
水路と田下駄と苗を同時に使用する、満たすための条件になってしまっているし。

そうなるとやっぱり水を入れる前に苗を生やして、それから水を引くほうが妥当かな?

しかし、だとすると「では何故面倒な二段階方式が主流となったの?」って疑問が出てくる。
もう少し歴史とちゃんと対話をするにはもう少し知識と時間が必要みたいだ。


2013年6月8日土曜日

生きくらげ

先日、某所。
この値札を見て相方が言いました。

すごいね、生きてるくらげだって!

しかし違和感があったのか?
その後30秒くらい凝視して「あ、違う!」と気がつきました。

生き、くらげ。

生、きくらげ。

どちらも同じ「生きくらげ」という配列。
しかし表している意味というのは大きく違っている。

海に生きるもの。

山に生きるもの。



生息する場所も、性質も全く違う生き物。
だけど食感や味が似ているから同じ名前が付けられたもの。
洒落ている分、非常に紛らわしい。

だけど昔の人が「きくらげはくらげに似ている」と伝えたかったことが良くわかる。
良くわかるからこそ、現代社会に生まれてしまった勘違い。

うーん、なんだか面白い。


2013年6月7日金曜日

伝えると言うこと

ウィーン国際空港に到着後、ホテルまではH.I.S.さんの英語ガイドさんが送ってくれた。

道中は私達にもわかるような簡単な英語で。
ゆっくりとしたペースでウィーンの街を紹介してくれた。
そして話が一区切りすると、必ずこう聞いてきた。

何か質問は?

不思議なもので、こう来られると何故か質問が思い浮かばない。
聞きたいことや知りたいことはいっぱいあるのだけど、何を聞いていいのかがわからない。
言葉が思いつかないと言うのもあるけど、意思表示一つまともに出来なかった。

返答が無いのを確認して「OK...ないみたいだから」と次に話を進めてくれていた。

話は進み、車は進み、ドナウを越えてウィーンへ。
そこでも観光の話やオススメのプランなど色んな話をしてくれた。
しばらくすると、彼はこう聞いてきた。

日本人は何で英語が話せないんだ?

話を聞くと彼の奥さんは宮崎出身の日本人らしい。
だからもしかすると、彼自身ある程度は日本語で話が出来るのかもしれない。
それを踏まえての疑問だと思う。

日本人は英語教育をしっかりやっている。
なのに何故話せないんだ?

彼の話を「多分こういう話だよ」と日本語で話をしていたのも聞いていてわかってたかもしれない。
だからこそ何故そこまでわかってるのに会話が出来ないのか?と思ったのだろう。

残念ながらそのときは答えられなかった。

英語で伝えるための言葉が思い浮かばない。
それも間違いなくあるのだけど、何よりも伝えることに対して弱いのだと思う。
私がそう思ったのはそれから数日した後のことだった。

足を運んだのが今回の旅で私が一番興味を持っていた場所、自然史博物館。

そこで目にしたのは意思や知識だけじゃなかった。
足を運んで来た人にイメージをどう共有するか?というスタンスの表現。

大雑把に言うと日本の展示の多くは「AはAである、故にAとなる」という感じになる。

これだと意思や知識は言葉で伝えるだけで、相手の頭の中に絵を作り上げていない。
だから見た人は言葉として知識を覚えることが出来るが、それが一体何なのかというのを理解できない。
要するに知識は「覚える」ためのものであり「理解」するものではない。

ウィーンで見たのは自然史博物館だけでなく他の美術館にしても同じ。
そこにある意思や知識をどうやって相手(私達Visitor)に伝えるかと言うことだった。

さっきの例えで言うとAが如何にしてAなのか、どうしてAに至ったのかをしっかり伝えてくる。

変な言い方をすれば、相手の脳にどうやって絵を描くか?というチャレンジ。
イメージを伝えるのが仕事であり、展示の役割であるわけで、ちゃんと伝わらなければ意味が無い。
だから文字による説明だけでなく色んな手段を使っていた。

私は残念ながら英語が堪能じゃないし、ドイツ語なんてもっての外だ。
しかし展示を見ているだけで何が何を表しているのか、どういった種類なのか。
またどの順番で変化したのかが、完全じゃないにしろ伝わってくる。


それを感じたとき、死にたくなるほどのショックを受けた。
今まで勉強していたのはなんだったのか...

そんな大きな衝撃と共にこの国では「伝える」ということを凄く重要視してると気がついた。

相手の中にイメージを作ること、自分の中のイメージを伝えること。
それが会話であり、情報の交換であり、それが出来て初めて理解に達するんだ。
なるほど、これが最初に出会った問題の答えか。

そう思ったら景色がが少しだけ違って見えた。





日本人の英語が苦手な理由は多分「話す機会の少なさ」にあると思う。
それは常に単一言語の、会話が成立する関係性が存在するから成り立つ話でもある。
いつもの言葉だけである程度成り立ってしまうから、あえて持ち出す必要がないのだ。

でも彼らはそれでは成り立たない。

だからしっかりと伝えるための手段を意識している。
英語はその中の、最たる表現道具の一つなのかもしれない。

それを感じてからは街中でも前を向き、できるだけコミュニケーションを取るようにした。

私はこう動く、私はこう考えている、求めている。
少しずつだけど、周りに伝わっているのがわかった。

帰国直前に自然と泣いてしまったのはそういう意識の変化からだったのかもしれない。
本当に名残惜しく、同時に妙な達成感があって溢れ出す感情を堪えることが出来なかった。

ホテルマンは「泣かなくていい、また待っている」と笑って声をかけてくれた。
帰りの車の運転手は笑顔でティッシュを出してくれた。

ありがとうしか言えなかったけど、それが伝えられて凄くうれしかった。

そして今回の旅で刻まれた「伝える」と言うこと、その意味。
これからの人生の中でもっともっと育てていかなくてはならない、種が芽吹いたと思う。
たった7日間の旅だったけど、私が手に入れたものはきっと大きい。

さて...私には何が出来るだろうか。

2013年6月6日木曜日

ロールケーキ

先日セブンイレブンのサイトを見ていたら6月6日はロールケーキの日、らしい。
http://www.sej.co.jp/

2月3日の恵方巻に続いてまた巻物。
確かイオンなんかは「秋の節分」とか言って色んなところで巻き寿司を売り出してたような記憶が。
http://www.aeon.info/

節分の歴史的には巻き寿司の前に豆撒きじゃないの?とは思うものの...
やはり大豆じゃ売上げに貢献しないんだろうな。

難しい問題だ。

このように近年は何故か巻き寿司ブームとも言えるほど巻き寿司が推されている。
何故巻き寿司で普通の寿司じゃないのだろうか?と一度考えたことがあるけど、多分原価の問題だろうね。
だって入ってるもの(具)が安いもん。

基本はきゅうりにかんぴょう、サクラデンブに卵焼き。
どれもスーパーの売れ残りで出来...おっと。

サブメンバーにはシイタケの煮付け、ボイルしたえび、イカなんかがたまに見られる。
これらが入ると単価も凄く上がるからやっぱり高級路線なのかな?
それからツナ、サラダ菜が入ってるのもあるね。

あとは米と海苔。

しかしこうやって挙げてくとやっぱり安いよね...
それでいて寿司ブランドの1つだからそこそこの満足感がある強みがある。
だからスーパーとしては扱いやすい商品なのかもしれない。

恵方巻きにロールケーキ、それから少し前には手巻き寿司の日なんてCMもあった。
http://www.youtube.com/watch?v=kZZkscMpQv0

そんなに巻きたいなら、私としては是非「色んな巻きもの」をそろえて欲しいなと思う。

山菜や貝類なんかも食べれるし、今は懐かしいビデオテープも良いかもしれない。
家族で眠った8ミリビデオを見る日みたいにすれば家族団らんにもなる。

スポーツなら走り高跳びがある。
日本全国でベリーロールをして冬の運動不足対策にしましょう、でも良い。
http://www.youtube.com/watch?v=HuLffwdrRXQ

コタツから出る良い機会に...なるかな?


2013年6月5日水曜日

カンダタ

芥川龍之介作、揖保の糸。

この中で主人公のカンダタは釈迦が垂らした揖保の糸を見つけ、極楽へと上って行った。
しかし途中で振り返ったとき、糸には多数の亡者が群がっていた。

そこで彼は「この糸は俺のものだ!お前たちは誰に聞いて上ってきた!下りろ、下りろ!」と喚いた。(Wikipediaより抜粋)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8

結局彼の上で揖保の糸は切れてしまい、再び地獄へと戻ることに。
哀れ希望の光には手が届きませんでしたとさ、というお話。

しかしながら...うーん。
あの場で一体彼は何を言えば良かったのだろう?

切れると困るから一人ずつ順番を守れ。

ちょっと違うような気がするな?
もしそれで全員上がっても極楽だって定員オーバーになる。
釈迦だってそれがわかってるだろうから、間違いなく途中で切るだろう。

それをカンダタが救おうとしたら、やっぱり地獄へ戻る気がする。
お前は善悪の判断がつかないのか、とか言って。

もし無言で進んでいたら。

せっかくの揖保の糸が、亡者の重みで切れるかもしれない。
そうすると結局は地獄へ落ちることになる。

そもそもの話、あれは本当に極楽へと続く糸だったのだろうか?

釈迦の起こした行動や心境が非常に謎だ。
まぁフィクションに突っ込みを入れても仕方がないのだけど、どうも昔から気になってしまう。

彼はどうしたら極楽へと辿り着いたのだろう?

結局はその先に居るものに啜られてしまうと思うんだよね。
黒くて暗い底から救われたとしても、極楽と思っていた先で食らわれる運命だった。
そう考えると釈迦の気まぐれに振り回されたと考えるのが一番かもしれない。

どちらにしてもだし抜いてしまえば味気なくて食えない結果となる。
夏の朝、月もない空を目指してもしょうがなかったんでしょう。

2013年6月4日火曜日

進化の過程

日曜日の夕方6時からはTBS世界遺産を見ていることが多い。
http://www.tbs.co.jp/heritage/

昨日はパラオの綺麗な海をやっていた。
そこには様々な生物が居たのだけど、環境に適応するようにどんどん変化している。
平和なら平和なりに、天敵が多ければ多いなりに。

それを見ていてふと思い出したのが「ウミガメがクラゲと間違ってビニール袋を食べる」という話。
(写真:ウィーン自然史博物館展示より)

クラゲにとって捕食者であるウミガメは天敵だ。
しかしウミガメは現在安心してクラゲに食いつけない。

これを回避するにはウミガメの目が進化しなくてはならない。
クラゲとビニール袋を判別して、ビニール袋を避けた上でクラゲに食いつく。
光の少ない海の中でもこれを確実に出来る目、判断基準が必要になる。

対してクラゲとしてはウミガメから逃げる方法として「ビニール袋に似せる」という手が生まれた。

だから現在の透明な保護色のような体に加え、もしかしたら半透明や真っ白なものも生まれてくるかもしれない。
今までは姿を消すことが体を守ることに繋がったが、今度はあえて見せることでウミガメの目から逃げる。

なのでビニール袋の存在はもしかすると、互いに全く別の進化の道を見つける岐路なのかなとも思う。

もしかすると日本近郊ではセブンイレブンのようなマークがついたクラゲが生まれるかもしれない。
他にもファミリーマートやイオンのマークがついたもの、お弁当用の茶色い姿に似せた進化もありえる。
そう考えると環境問題は文明と同じく、人が勝手に押し付けてるものなのかもしれないな、という気もする。

2013年6月3日月曜日

お好み焼き

お好み焼きには大きく分けて3つの系列があるらしい。

大阪を中心とした関西風。
味付けはソースにマヨネーズという感じ...なのかな?
一般的にお好み焼きでイメージされるのはこれかもしれない。

これは○○玉という呼び方をするそうだ。
だから豚玉と言えば「豚が入った関西風のお好み焼き」となる。

東京を中心とした関東風。
札幌に住んでいたときに近所にあったお店の人が言うには醤油ベースの味付け。
さらにこちらは○○天という呼び方をするそうだ。l

だから豚天というと「豚が入った関西風のお好み焼き」となる。
食べた感じとしては関西風より堅く、少し油っぽい後味が残った覚えがある。

最後に広島を中心とした広島風。
おたふくソースに目玉焼き、焼きそばが入ったボリュームのある食べ物。
個人的にはこれが一番好きなお好み焼きかもしれない。

が...気になるのは何故「中国風」じゃないのかという部分。

中国地方では普通に食べられてないのだろうか?
不思議に思い、とりあえず色々と乗ってるwikipedia先生を頼ることにした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D

戦後に生き残るために生まれた料理か。

言い方は失礼だけど、お気楽に見えるのも娯楽としての要素が強かったからかな?
飯を食うとき、腹いっぱい食うときだけは楽しく居よう!みたいな。

だからレシピや作り方で「こういう料理」って分けられないのかもしれない。

強いて言えば1.小麦を使って 2.野菜を使って 3.好きなの入れて 4.腹いっぱいになる食べ物、くらい。
料理すること自体がお好みだから、作っても食べても楽しい。

だからお好み焼き。
そう考えるとなんだか平和の象徴っぽくも感じるね。

それと大まかに分けると関西風と広島風だけになるのか。
札幌時代に食べた関東風の店主は「三大お好み焼き」と言っていたんだけどな...

とは言え関東風の店主からすれば「関東風こそお好み焼き」という意識があったのだろう。
その職人気質的なところは非常に評価するし、心意気は好きだから良いとしよう。
残念ながら味は好みではなかったけど。

そういう個人の店だけじゃなく、全国チェーン店のお好み焼き屋さんも出てきている昨今。
間違いなく、いつの日か「これぞお好み焼き」という形も出来上がってきてしまうだろう。

でもいつまでも堅物になることなく、楽しいお好み焼きで居て欲しいなと感じる。

2013年6月2日日曜日

ロボット

bloggerはgoogleのサービスなのかな?

詳しくはわからないんだけど、googleっぽいアクセス解析が無料でついていた。
世界のどこから、どんなOSで、ブラウザで、どんな記事を読みに来てるのか?っていうのがわかる。
ただ私にはそれがどんな存在なのかっていうのは良くわかっていない。

相方に聞いたところbotと呼ばれるロボット検索サイトの何やらもあるようだ。
やはりアメリカなんかからのアクセスはそうなんだろうか。

となると私のblogが更新される度、いちいち見に来てるんだろうな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

デデンデンデデン デデンデンデデン

全部読んだ後はなんかの処理をして「I'll be back.」と呟きながらブラウザを落とす。
もちろんその言葉に嘘はなくて、私がまたこうして更新するたびにゴツイ体したロボットがやってくる。
http://www.allmovie.com/movie/v49101

デデンデンデデン デデンデンデデン

お決まりのサングラスはモニターの見すぎで目が悪くならないようにだ。
ロボットは消耗品だから負荷を下げて、メンテナンスを軽くしなくてはいけない。
http://www.imdb.com/title/tt0088247/

デデンデンデデン デデンデンデデン

ライフルの代わりにマウスを持って、無表情でカチッカチッ。
そして高頻度で現れる私のblogを見て「またここか」と思っているのだろう。
明確な感情はないだろうけど、教えてあげよう。

人間の言葉で言うとそれはウザいというのだよ。

でもそう考えると凄く面白いから、天邪鬼な私はどんどん更新したくなる。
がんばれターミネーター、私が書き飽きるその日まで。


2013年6月1日土曜日

ARTORO参加記録 第一回目 宿題編その2

ここ数日の雨で水没していた我が畑(トムヤムクン味)。

あぁ、もうダメかな?と諦めていたんだけど、なんと芽が生えてる...?

え?わからない?
生えてるんだよ、真ん中にもやしみたいのが!

今にもやばそうな...例えるなら波平のアレみたいのが一本。

ひょろ~~~ん

って感じで存在しているのだよ。
ただ確かにわからなかったのでペイントで丸をくっつけてみた。

...まず丸がどこだかわかんねぇ...

こういうときに自分の技術力の無さに辟易する。
まあそれはそれとして、そもそもこれが古代米の芽なのかどうかもわからない。

もやしを埋めた覚えはないから、さすがにそれは無いとは思うのだけど、ちょっともやしっぽい。

もしかして雑草?

という疑問もあるのだけど、次回持ち込んで確かめようにも...これちゃんと成長するの?
畑で生やす前にすでに水田と化してたけど、腐ってない?大丈夫?

などの疑問点は多々存在するものの、まぁ気楽に成長を待とうと思います。

もう一つの畑(ヘルシア)は水没してないけど芽が生えてない。
でも地面は湿ってるしなぁ。

うーん、違いはと言うと風が当たるかどうかかな?
それともこの水没が何かのキーワードになっているとか?

謎は尽きないけど、真偽を確かめるためにも無事に成長して欲しいものだ。

...というのが昨日書いた内容の話。
本日はというと、帰宅して覗いてみたらなんと芽が生えてた!!!

水田と化した畑(トムヤムクン味)も無事。
昨日までは何の反応も無かった畑(ヘルシア)の方も、カイワレ大根的な芽が出ている。

さすが関取、凄い生命力だな。

基本ほったらかしで大丈夫、という私の予想は今のところ成功と見ていいだろう。
ズボラじゃなくて狙いなんだからね!

イカになりたくない話

先日の朝。

寝ながら苦しそうに唸ってる相方にどうしたの?と声をかけてみた。
すると返ってきたのが「イカにはなりなくない~」という呻き声。

...あなた疲れてるのよ。

どうも彼女は変な夢を見ていたようです。
後で聞いてみたところ「イカにされて食べられそうになった」との話。
どういった経緯かはわかりませんが、無事で何よりです。

しかし気になるのがどう食べられそうになったのか。

刺身なら結構な恐怖ですよね。
まな板にドンと置かれて、いきなり皮をはがれて...ひぃぃぃぃ!!!!

ホイル焼きもなかなかのものです。
徐にアルミホイルの中に包まれ、いきなり加熱される。
言い方はアレですが、よく聞く「棺おけの中で生き返る話」に近いかもしれない。

あとはなんだろ?
イカスミスパゲッティとかはちょっと違いそうだしなぁ。
サキイカなんかは結構グロテスクで面白いかも。

しかしこうして考えてみると料理とはずいぶん残酷なものだね。

美味しく食べれたほうがイカも喜ぶという話も一理あるのだけど、それは捕食する側の意見。
食われるほうにしたらマグロに噛み付かれても、丘で刺身にされても大差ないでしょう。

ただ料理されるにしてもバクテリアに分解されるにしても死んだら一緒か。
そう言えばイカの魂っていうのがあれば、次はどこの世界へ向かうんでしょうね?

イカはイカなりに、イカとしての天国でもあるのでしょうか。